自宅から最寄りのJR駅までバスを利用することがある。
5月の晴れた朝、いつもより早く家を出てバスに乗った。バスはほどほどに込んでいた。幾つ目かの停留所でイヤな思いをした。初老の女性がこのバスに乗ろうと必死で走って来るのが見えた。私は応援した。バス停に並ぶ客がゆっくり乗り込んでくれたらいい、と思った。そうすれば彼女は間に合う。しかし残念ながら女性はバスに間に合わなかった。おそらく運転手はバックミラーでその女性が走って来ているのは気付いたはずだ。あと15秒も待ってあげれば女性はバスに乗れた。その程度の優しさが運転手にはなかった。『運転手さん、もう一人来てますよ』と言う勇気が私にはなかった。
6月の曇りの朝、いつものバスに乗り遅れた。次のバスでは電車に間に合うかどうか微妙だ。バスは込んでいた。幾つ目かの停留所でイヤな思いをした。並んでいた4、5人の客が乗り込んだのにバスが出発しない。見ると中学生が走って来ている。『運転手さん、みんな出勤で利用しているんですよ。たった一人のために多くの乗客が足止めを食らうスジはないでしょ』と言いたかった。結局、私はタッチの差でいつもの電車に乗り損ねた。
自分の置かれている状況によって、同様の事象も全く逆に捉えられる。分かったつもりでいて、優しいつもりでいて、実はまだまだ人様に迷惑をかけていることがあるのだろう。
通勤に電車を利用する。京葉線で新木場に出て有楽町線に乗り換える。有楽町線は始発のため、大抵座ることができる。どこに掛けようかといつも悩む。シルバーシートに掛けようか、どうしようか。そして結果、今日もシルバーシートに掛けてきた。
「とんでもないヤツだ」と思わないでください。
朝の通勤電車。新木場から乗り込む方たちの大半は席を確保すると目を閉じる。ほんの短い時間でも二度寝の幸せを味わっている。次の駅から乗る者は誰も座れない。すでに混んでいる。そこへシルバーシート目当ての老人や体の不自由な方が寄っていっても誰も気付かない。気付いていても寝た振りをする人が多い。一般のシートに掛けていると間に立っている人が多いため席を譲ろうにも譲れない。
そこで、シルバーシートに腰掛けることにした。自分が掛けていれば確実に席を譲れる。二度寝の幸せは放棄しなければならないが、たまに席を譲る満足感に出会える。今朝も妊婦に席を譲った。
ただ、シルバーシートに腰掛けていると、ときどき冷たい視線を感じる。言い訳もできず、実に気まずい。でも、また明日もきっと躊躇しながらシルバーシートに掛けるのだろう。
その年の9月、1年間以上も検討を進めてきた大きなプロジェクトの仮発注をもらい年末まで慌ただしい日が続いた。緊張と期待を持って年を越した正月、プロジェクトのリーダーから呼ばれた。工程の打ち合わせだろうと思って伺うと彼は暗い顔で「昨日の会議でプロジェクトの中止が決まりました。申し訳ない。」と言った。 数日後、今度は別の部署から「これまでかかった費用の清算をするので来てほしい。」と電話があった。落胆のなか訪問すると担当者が「まことに申し訳ない」と話しだした。数年前のことである。
それなりに誠意のある態度には見えた。担当者は確かに申し訳なさそうであった。会社のトップが「中止」と判断した事項の処理は担当者も悔しいのであろう。そのことに対する怒りを担当者へ向けても可愛そうだと思った。ただ、どうしてもどうしても理解に苦しむことがあり彼に率直に聞いた。
「○○社のあなたに聞くんじゃありません。あなた個人に聞きたい。ひとに謝る時に、人を呼び付けて謝ることをあなたは何とも思わないのか?謝る時にはそちらが出向いてくるべきじゃないのか?」と。
彼は驚いたような目でこちらを見、そして慌てて自分の失礼を詫び始めた。翌日、上司を連れ当方に来られ誠意を持った保障をしてくれた。彼にもその会社にも恨みはない。
文句を言ったのはその彼が初めてだがこのような常識をわきまえない対応をされるのは日常茶飯事。呼び付けられてお詫びを言われたのはこのときが初めてではない。「部下の失礼をお詫びしたいので来てくれないか」と言ったバカなヘリコプター会社の社長がいた。会ったこともないのに 「ヘリポートについて教えてもらいたいのだけど」と駅のホームから携帯電話で連絡してくる設計士もいた。
人に詫びるとき、人にものを尋ねる時、人にお願いするときは出向いて行くのが常識。それができないのならせめてその非を詫びる言葉くらいはいただきたい。それが道徳。人間としての基本をわきまえない、会ったこともない若い男の携帯電話から「ちょっと来てくんないすか?」との非常識な電話が今日もまたあった。
小学2年生のとき交通事故で父を亡くした。
正月3日、帰省先から自宅へ帰るタクシー。父母姉と私、一家4人が乗っていた。そのタクシーが、路肩に止まっていた材木を積んだトラックに突っ込んだ。
助手席で父は死んでいた。のど元にドアが食い込みぱっくり裂けた首から血が噴出していた。私は生え替わったばかりの前歯を無くし唇を切った。どうやって車から降りたか記憶はないが、小雪の舞う深夜、泣きじゃくりオロオロしながら、ポケットの中にあったお年玉袋で唇から流れ出る血をぬぐっていたことを覚えている。
そこから我が家の極貧生活がスタートした。幼い頃の自分を思うとき、今でも可哀想で涙が出る。
もっと可哀想なのが母。事故当時、母はまだ33歳であった。車のガラスの破片で顔を傷つけ40針以上縫う大怪我をした。後遺症の残る体、大きく傷ついてしまった顔。自分の夢も捨て、必死に私たち姉弟を育て大学まで出してくれた。
私も50歳を過ぎ今さらながら母の苦労に感謝する。心が痛む。33歳の女性は若く美しい。33歳で母は若さと美しさと幸せを一瞬にして失った。申し訳なく、ありがたく、感謝に耐えない。
その母から教えられたことが一つ。「迷惑は内輪からかけろ。決して他人様には迷惑をかけるな。」
貴重な教えである。そして、その言葉を実践しているつもりの私は未だに母親孝行ができずにいる。母は最も内輪の人だから。
「車を売った人、買った人、どちらが得をしたのでしょう?」という問題がある。この問題に瞬時に解答できる人は殆どいない。ナゾナゾでもなければダジャレでもない。いろいろと条件を付けずにシンプルに考えればいいのだけれど・・・。
うちの会社はモノを仕入れてモノを売る。担当者は購入責任者になることもあれば販売責任者になることもある。しかし、世の中の多くの方は、仕事においてどちらかの役割に片寄ることが多い。購入することを仕事とする人、販売することを仕事とする人。ここでもう一つ問題。
「モノを売る人、モノを買うヒト、どちらが偉いのでしょう?」
「サービスを売る人、サービスを買う人、どちらが偉いのでしょう?」
商売の原形は「物々交換」である。自分が持っているものよりも相手が持っているものの方が欲しいから交換するだけの話。メリットがあるから交換する。双方、得をするのである。「物々交換」を便利にするために貨幣が産まれた。商売の基本は同じ。買った人、売った人、どちらも得をするのが売買なのだ。
どちらも得をするから交換し、売買が成立する。どちらも得をするのだから偉いもなにもない。ところが、なにかおかしい。「モノを購入する側が偉い」と錯覚している人が多い。
自分にとっても得になるように“値切る”交渉は必要だが、売買時点では対等。それが売買である。
私は部下に対して、購入側になったときに偉そうにふんぞり返って交渉することは許さないし、販売する側に回ったときに必要以上にへりくだることも許さない。いつも、相手の立場に立って、最後に双方が満足する結果を出すことを求めるだけだ。
米国のサウスウェスト航空は機種をボーイング737のみに絞ってコストカットし、多額の利益を出していることは有名な話。機種ごとにライセンスや工具が異なる航空機の選択としては機種が少ない方が効率がよい。我が国のヘリコプター運航各社も数年前よりその方向へ舵を切っている。
一方、入札という「一般受け」「素人受け」する方法が進んだ官庁は購入の都度、機種がバラバラ。「ヘリコプターの博物館」とまで揶揄される航空隊がある。
言い訳はあろう。しかし、利益を追求する民間航空会社が絶対に選ばない「コストのかかる選択」を「コストダウンのため」と偽って入札されている。なんと情けない話か。LCCという言葉を官庁は知らないようだ。TLCCとなると訳わからない。
『トータル・ライフ・サイクル・コスト』・・・ヘリコプターを機体価格のみで入札し、最も安い札を入れたものを買う。愚の骨頂。これでは押し付けられた航空隊がかわいそう。高い金を払って隊員を訓練し、操縦や整備のライセンスを取得させる。場合によっては新たにライセンサーを雇用する。高い工具まで買い揃えなければならない。機種がバラバラだと管理も大変。事故に繋がらないかも心配。もちろんTLCCは高くなる。
『官庁が発注するには入札が最善の方法』と信じて疑わないバカがまだまだ多すぎる。それならばいっそすべての経費を含め「向こう20年で発生するすべての経費の合計(20年間TLCC)」ででも入札をやればいいのに。
我が社は社是・社訓と言うものをまだ持っていない。私の席の後ろに『義理 道徳』の大書を掲げ、このことの大切さを折にふれ社員に伝えているが社訓という意識はない。
いろんな会社がいろんな社是を掲げている。来訪者に見えるところに社是を記した色紙を掲げている会社もあるし会社案内に示すところも多い。ただこれまで魅力を感じた社是はない。(実は、我が佐伯鶴城高校の校訓「自治・親愛・剛健」が私が出合ったそれらのもので最も素晴らしいと思っている。)
日本を代表するような大きな会社の社是にも「努力」だの「技術」だの大のオトナが口にするのも恥ずかしいような立派な言葉が並んでいる。そして、社員のだれもそれを認識していない。それらダメな社是の中でも私が最も恥ずかしく感じるのが「お客様第一主義」というものだ。
ホリエモンの会社のように「株主第一主義」の会社が最近増えてきているのは確かであるが、まともな殆どの企業にとっては「お客様第一主義」は当然である。それを敢えて掲げなければならないのは基本的にまともではないのだろう。さらに「お客様第一主義」と書いた張り紙を応接室や通路など来訪者の目に触れるところに堂々と張っているのを見ると、なんとデリカシーのない会社か、と嘆いてしまう。このような会社で「お客様第一主義」を実践している方にあったことがない。
来訪者の目に触れるところに「お客様第一主義」と書いたものを掲げているような会社はまず間違いなく「上司第一主義」であり、そして「出世第一主義」の会社であると私は思っている。
毎年のように、医学部受験生の親から裏口入学の口利き料として数千万円を騙し取る詐欺のニュースが流れる。先日(1月22日)も大阪の予備校経営者が受験生の親から7000万円もの大金を騙し取ったとして逮捕された。ラジオでは「息子を思う親の気持ちに付け込んだ卑劣な犯罪」として紹介していた。ラジオはさらに「被害にあったのは・・」といって騙された親に同情していた。カネを払ったのに息子は医大に合格しなかったという。
「ちょっと待って!」と言いたいのは私だけか?
昨年、大分県では教員採用試験に絡む汚職事件が発覚し、複数の教員が懲戒免職になった。子供の採用を頼み400万円のわいろを贈った元小学校校長は、新聞の一面に実名と顔写真が出て「とんでもない教師」と皆に罵倒された。
わいろを贈った教師を擁護しようとは思わない。ただ、同じく自分の子供の将来をカネで買おうとした親バカな行動を、一方は「とんでもない!」と実名・顔写真を新聞に掲載し犯罪者、他方は卑劣な犯罪の被害者として名前も公表されない。おかしくないか。
「おかしい」と思わない連中が多すぎる。
大分県の教育委員会汚職事件はさらに広がりを見せているが、この際徹底的に捜査し、再発防止に努めてもらいたいものである。しかしこれはどうも大分県に限ったことではないようで他県からも同様な噂が出始めている。
さらにこれらは教員、公務員に限られた問題ではないのではないか。たとえば事業予算に国会の承認が必要な公共放送NHKには多くの国会議員や官僚の子息が勤務していることは有名な話。或いは航空や電力、鉄道などの公共性の高い事業会社にも多くの政治家の関係者が入っていると聞く。彼らすべてが真に実力で入ったのかどうかは極めて怪しい。もしここに親の力が働いていたのなら「公務員ではないので問題はない」「金品授受は行ってない」との釈明を許してはならないのではないか。その陰でコネがなく努力を続けた学生が涙を流していることを知らなければなるまい。この際多くの公的機関で大分県と同様な状況はないのかを探ってみる動きが起こることを期待する。
六本木ヒルズのビルの回転ドアに子供が挟まれ死亡するという不幸な事故があった。その後、日本中の殆どの回転ドアが使用不可になり、そして多くが撤去された。この状況に釈然としない思いを抱くのは私だけではなかろう。
回転ドアに限らず、エレベータでもエスカレータでも自動車でも、すべての自動の機械は利用の仕方により凶器になりうるものである。いろんな状況を想定して十分な安全対策を施すことは当然であるがそれにも限界がある。利用する側が当然払うべき注意を怠れば事故は発生するものだ。
回転ドアに挟まれ、子供を失ったご両親には酷な言い方になって申し訳ないが、大勢の人が動き回る都会の真ん中では親が子供にルールやマナーを教える必要があった。都心の回転ドアに幼い子供が走ってきて頭から突っ込むなどとは想定外であったのかもしれない。
回転ドアや森ビルだけが悪者になってしまったこの国の、マスコミのあり方や自分の意見を持たない人々の思考回路に疑問を感じる。
熱効率がよく、環境的にも意匠的にも優れた回転ドアが、あの事件をきっかけに姿を消したのは悲しい。あまり神経質にならずに安全対策を万全にした上での回転ドアの復活を強く望むものである。私は昔からなぜか回転ドアが好きだったのだ。
(この文は昨年6月1日 産経新聞に投稿し掲載されました。一部修正しました。)
産経・毎日・読売各新聞で日大サッカー部の不正乗車が大きく報じられた。学校からサッカーグラウンドまでは通学ではないので学割定期が買えない。このため練習場近くの友人の名義を借りて虚偽の申請をして定期券を取得していたことが大きな問題となった。
鉄道会社は「立派な犯罪。あまりにも認識不足」とし、刑事告訴も検討するという。サッカー部は活動を自粛したが鉄道会社は最大3000万円もの罰則金を要求するかもしれない。
私の周りの者にこの話題をふると「甘えだね。」「悪いことしちゃいけないよね。」との言葉ばかりが返ってきた。毎日新聞では「大学運動部の不祥事は後を絶たず、最近では京大アメフット部の元部員による集団暴行事件(06年1月)、国士大サッカー部員による集団いん行事件(04年12月)などが起きている。」と凶悪な性犯罪と同レベルルで評した。
私にはこの不正乗車事件がそんなに大きな問題とは思えない。むしろ学生に同情すら覚える。学校から毎日通うグラウンドは当然学割定期が利用できるものと思っていた。現状の規則に違反しているからと問題を大きくし、学生を苦しめるのではなく、鉄道会社の規則の方を早急に書き換えるべきだろう。学校の隣にグラウンドがあればこのような問題は生じなかったはずである。都会の事情で学校とグラウンドが離れただけなのだから。日大に限らず多くの高校や大学のスポーツクラブの学生がきっと同じ罪で悩んでいることだろう。四角四面にことを構えず、速やかな規則の改定と温和な対応を心より望むものだ。
ここで最も嘆かわしいのは新聞が「悪いことをした」と報じれば自分なりの考えを持たずに記事のまま「悪いことだ」と考えてしまう現在の多くの読者の思考回路だ。私が「そんなに悪いことなの?」と訊ねて上の論を述べると「そうだよね。学割使えるべきだよね。」と考えが変る。物事にはいくつもの観方がある。常に別の方向からも見るように心がけなければ客観的な判断はできない。
いつの頃から親たちはこんなにも自分の子供に甘くなってきたのだろう。
ボクシングの亀田三兄弟の父親は息子たちに道徳も勉強も言葉使いも教えない。教えるとボクシングが弱くなる、と言わんばかりだ。
周りを見回しても亀田兄弟の親みたいな連中がたくさんいる。
コストコというスーパーがある。すごく安く、魅力的な商品も多い。肉も魚も酒もティッシュもDVDも、何でもビックリするくらいに安い。客はみな大きなカートを押して歩きながら買い物をする。この、食品も入れるカートに平気な顔で子供を乗せているバカな親がなんと多いことか。カートには「お子様をカートに乗せないでください」と書いているのに関係ない。バカな親に育てられているバカな子供が「乗りたい!」と言えば注意もせずカートに乗せる。それらの親と子の顔を眺めるとやはり親も子もバカ面である。そんなバカ親たちに注意したことも幾度かあるが、最近はそれもやめた。
子供にねだられるままに受ける親がいて、我慢を知らない子供が増える。その子供らは大人になって亀田のパパみたいになるのだろう。
少し前まではスーパーで子供が欲しいものをねだっても親が買ってあげず、泣き喚く子供とそれを叱る親とのニラメッコがあちこちで見られたが、こういう光景が殆どなくなった。
「なんで僕が廊下の雑巾がけするの?」「風呂焚きはイヤだよ」と言ってもかつては「四の五の言うな!それが子供の役目!」と歯牙にもかけられなかった。それでよかった。
親がなんでも子供の言うことを聞いているとやがてきっと「なんで人を殺しちゃあいけないの?」などとの質問を子供が始めるようになるのだろう。
会社の経営に携わるようになって15年以上になる。いくつかの会社の取締役の末席を汚して来た。ボーナスというものはもう10年以上手にしたことがない。・・・・・
私のデスクの後ろの壁には我が郷土、大分の誇る名筆、樋口紫水による書が飾られている。書かれている文字は『義理 道徳』みみずが這うような字しか書けない私でも審美眼には自信がある。こんな美しい書はめったに見ることができない。
「義理 道徳」の言葉から分かるように私は古いタイプの人間であるようだ。
ホリエモン君がマスコミを賑わせている。すごいオトコだ。
アタマの切れもさること、あの行動力と、何事にも動じない肝っ玉の太さにはただただ感服する。だが、好きにはなれない。
学生時代に同級であったなら一度くらいは殴っていただろう。
「人の家に土足で上がり込んでおいて『おい、仲良くしよう』と言ってもこれは無理な話」と、SBIの最高経営責任者の北尾氏がホリエモンの行動を批判した。まさに言い得て妙。私は膝をたたいて感心した。
かつて、イギリスに魅力的な製品があるという情報を得、何度かイギリスに足を運んだ。宣伝広告費をかけ、顧客のところへ訪問し案内した。認知してもらうために利益なしで販売した。2年たち、種まき業務が終わり、そろそろ収穫と思っていたところで、それまで当社と親しかった大商社が当社の商権を奪っていった。
アメリカの技術者が素晴らしいアイデアを持っていたので当社が金を出して製品化した。日本のヘリコプターユーザーに案内して翌年の予算を確保してもらった。複数のユーザーから「来年度は間違いなく購入しますから」との言葉をもらっていたがどこからもオーダーが入らない。調べてみると当社を辞めた人間が「分社しました。この製品は私の会社が引き継ぐことになりました。昨年の見積もりどおりです。」と言って日米を騙し売り歩いていた。
種を撒いては、大商社や個人的なインチキ男に果実を取られる。脇が甘いと言われればその通り、否定できないが。・・・・「カネのためなら、人に嫌われることも後ろ指をさされることも気にしない。」そんな会社や個人が増えている。
テレビのアンケート調査ではホリエモン支持者の方が多い。カネのために何度も裏切られた私にとっては「儲かるが勝ち」「カネで買えないものはない」のホリエモンは好きにはなれない。
私は今朝も『義理 道徳』の書に頭を下げ、これを誓った。
今から13年前、ある会社の取締役航空事業部長という肩書きを与えられた。部下は25歳年長の方々まで含めて50名。“航空事業部長”という肩書きと同時に私に与えられた使命は“航空事業の中止”だった。世の中はバブル崩壊が始まったばかり、“リストラ”という言葉を初めてマスコミで耳にした頃だった。
それまでは事業発展に向け必死に努力していたのが一転、トップに立つと同時に事業の中止を命じられた。極秘でXデーが決められ、第一次退職者リスト、第2次退職者リストを作成した。まさに断腸の思い。人知れず涙を流す辛い毎日だった。
銀行や親会社の経営陣と交渉し、なんとか事業存続の方向を模索するも、バブルの崩壊は加速度的に進み、力及ばずXデーは訪れた。
正直、誠心誠意を尽くして行動したつもりだったが残念ながら多くの方々には憎まれる結果となってしまった。その後も航空業界に残って未だに頻繁に連絡を取りあっている方々もいる。毎年、年賀状だけは交換しているものもいる。同時に、今はどこでどうしているのか全く行く方を知らない方たちも多い。
13年たった。景気は一向に良くならない。もちろん、あの航空事業部は無くなった。
皆が元気で、それぞれの分野で活躍されていることを祈っている。
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
元日の朝、我が家のトイレのカレンダーも新しくなった。家人が選んだのは郵便局からもらったもの。各月のページには筆文字の文と水彩画が描かれている。金太夫という方の「走りつかれたら歩いたっていい 自分の 自分の人生じゃないか」という文が1月の言葉。野田総理が紹介した「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」と筆文字で語る相田みつをにしろこの金太夫にしろあまりに小市民的。私は好きになれない。自分を卑下し、優しさを売り物にする姑息な文と感じてしまう。いや相田みつをや金太夫なる人物が姑息というわけではない。これらを前面に出し、商品化する者やその優しさを売りにする政治家が姑息に思えてならない。我が家には受験生がいる。彼がトイレに入るたびに「走りつかれたら歩いたっていい・・」などと読んだらすぐに歩いてしまうだろう。優しい母親の存在はありがたいものだろうが時に優しさは諦めに通じる。
同じ元旦、産経新聞は西郷隆盛や大久保利通を育てた郷中教育の訓戒を紹介している。「負けるな うそを言うな 弱いものをいじめるな」という教えはこの地方で現在も脈々と受け継がれている。剛毅さ、克己につながるこのような言葉こそもっと声高に伝えたい。少し前までは日本人はもっともっと厳しかった。 私が高校生の頃流行った曲「母に捧げるバラード」の中で武田鉄矢さんのお母さんは次のように鉄矢少年を叱り励ます。「働いて、働いて、働きぬいて、遊びたいとか休みたいとか、そんなことおまえいっぺんでも思うてみろ。そん時ゃ、そん時ゃテツヤ死ね。それが人間ぞ それが男ぞ。」 この厳しいが涙が出るほど優しい母親の歌が流行ったのが今から40年前。厳しい母、厳しい上司、厳しいリーダーが多かった。この40年間で我が国から厳しさが失われ、姑息な優しさばかり前面に出てきた。
1月のカレンダーの文が「走りつかれたら歩いたっていい・・」では草食系男子しか育たないし母親から多額の政治献金を受ける総理を生んでしまう。